文学作品『方丈記』はなぜ史料として重宝されるのか

文学作品『方丈記』はなぜ史料として重宝されるのか

 『方丈記』は鴨長明が世の無常さを描いた文学作品である。しかし、文学作品ではありながら、重要な史料として今日に用いられていることも事実である。なぜ文学作品の一つである『方丈記』が貴重な史料として用いられるのか、今回は「安元の大火」を例に歴史書の『玉葉』を比べながら検証していく。

 「安元の大火」とは安元三年四月二十八日に発生した大火災である。歴史上、京都を襲った火災のなかで最も大きな規模の一つであり、当時の都の約三分の一を焼き尽くした大火災である。まずは『方丈記』から考察していくこととする。「予ものの心を知れりしより、四十余りの春秋を送れる間に、世の不思議を見る事、やゝ 度々になりぬ。去安元三年四月廿八日かとよ。風はげしく吹きて静かならざりし夜、戌の時許、都の東南より火いできて西北に至る。(中略)一夜のうちに塵灰となりにき。火元は樋口富小路とかや。舞人を宿せる仮屋よりいできたりけるとなん。」(※1)上記の描写から火災の被害の膨大さがみてとれる。「一夜のうちに塵灰となりにき」という表現から、火災の異常さ、衝撃が伝わってくることは言うまでもない。この大火の詳細は『玉葉』には安元三年四月二十八日条に記されている。朝廷の歴史史料として残されているこの書から、大火を歴史的観点で記録されているものである。「廿八日(丁酉)、天晴、(中略)亥刻上方有火、樋口富小路辺云々、暁更人告、夜前火猶未消、京中人屋多以焼亡、已及内裏(閑院)、云々、余騒起見之、火勢弥盛、(中略)子細追可尋記、依大衆事、賀腰輿卒尓行幸、為物恠之由、世上謳歌、今以符合欤、焼亡所々」(※2)。『玉葉』の作者、九条兼実はこのように火災を記している。「廿八日」という日付は『方丈記』と変わりはなく、出火元の「樋口富小路」という点においても相違はない。しかし、発生時刻は、『方丈記』には「戌の時」と記されているのに対して、『玉葉』には「亥刻」と記されており、若干の相違は見受けられる。今回引用記載はしていないが、この後に両書の本文に記載されている、「焼亡した公卿の家の数」については、『方丈記』は十六、『玉葉』には十四と書かれてあり、具体的な数は違いがみられる。いずれにせよ若干の相違はあれどほぼ同じと言っても過言ではない。

 上記から文学作品でありながら、『方丈記』は貴重な歴史史料として現代の歴史研究に用いられる理由がよくわかるであろう。鴨長明が描いた事件・事変の詳細さ、狂いのない土地勘は、後世の京都に住む人々に、きわめて関心深い歴史の存在を伝えてくれているのである。

【参考文献】

※1『新訂方丈記』:市古貞二、株式会社岩波書店、2013年4月5日、10頁~11頁

※2『九条家本玉葉』:九条兼実、宮内庁書陵部、1994年3月、65頁

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