真珠湾攻撃の真相に迫る

真珠湾攻撃の真相に迫る

 太平洋戦争における「真珠湾攻撃」と聞いて知らない人はいないだろう。多くの小説や漫画、映画でも取り上げられている有名な戦いの一つである。真珠湾攻撃と聞くと、太平洋戦争の皮切りで、日本軍がアメリカ軍に大損害を与えた戦いという認識の人が多いと思う。本当にそうだったのか、実際の流れや数字を見ながら振り返ろうと思う。

 まず、日本軍がアメリカとの開戦に踏み切った理由として、アメリカからの石油輸出停止と、「ハル=ノート」と呼ばれる日本への提案があったとされる。この提案の中には、インドネシアと中国からの撤退などが要求されていた。日本はこれを最後通牒ととらえ、開戦に踏み切ったとされる。しかし、アメリカ側はこれを最後通牒とはしていなかったとされている。そして、当時の海軍の司令長官であった山本五十六の案によりハワイ奇襲作戦が立てられた。空母「赤城」らによってアメリカの戦艦が次々と沈められ、大勝を収めた、という話はよく知られたところだろう。しかし、当時の国際法では完全な奇襲は違法とされていた。そのため、日本も奇襲の数時間前にはハワイ基地に奇襲を知らせる予定でいた。それにもかかわらず、日本の伝令兵たちが前日に酒盛りをしていて、宣戦布告と攻撃が同時になってしまい、国際法で禁止されていた奇襲となってしまった。このことがアメリカの逆鱗に触れ、「リメンバーパールハーバー」のスローガンのもと、対日感情が悪化した。また、戦果について、戦艦を5隻沈めたと言われている。当時、真珠湾には8隻の戦艦がいたとされ、沈めた艦船以外にも損傷を与えていた。しかし、アメリカ軍が実際に失った艦船は2隻にとどまった。なぜなら、沈んだ戦艦も引き揚げて修理したからだった。修理のための手間はかけさせたものの、実際の戦力を大幅に削ることはできていなかった。また、真珠湾には当時石油庫があったが、そこには一切攻撃を加えなかった。石油は戦艦の燃料である。石油がなければ艦船は動くことができず、鉄くずと同等になるため、石油庫を攻撃していれば一定の戦果は見込めていたとされる。さらに、その後の戦いでは戦艦ではなく空母が主流になっていったため、戦艦を失っても打撃が少なかったと言われている。

 一般的には大成功と言われがちな真珠湾攻撃だが、実際はアメリカの対日感情をいよいよ煽り、しかも思ったほどの戦果を実はあげていなかったのである。しかし、この攻撃を皮切りに連合国との戦争に進んでいった。

参考文献

・加来耕三、連合艦隊99の謎、二見文庫、1995、130-136

・帝国書院編集部、図説 日本史通覧、帝国書院、2016、279

・野村實、山本五十六再考、中公文庫、1996、234-244

・「歴史の真相」研究会、日本の軍艦完全網羅カタログ、宝島社、2015、38-39

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