ミッドウエー海戦とその前後

 日本史を履修していれば、ミッドウエー海戦が何を指すかはご存じだろう。真珠湾攻撃の半年後、ミッドウエー諸島で日本軍とアメリカ軍が衝突し、日本軍が大敗した海戦のことである。これが太平洋戦争の攻守の転換点になったとされる。なぜミッドウエー海戦で大敗したのか、その前後には何があったのだろうか。

 ミッドウエー海戦の一か月前に、日米軍は珊瑚海で衝突している。ここでは、日本は軽空母「祥鳳」を失い、アメリカは空母「レキシントン」を失っている。当時の日本では「レキシントン」を撃沈したことを大々的に報じたが、当初の目的であったポートモレスビー攻略には失敗し、アメリカが戦略的には勝利している。ミッドウエー海戦の作戦は、アメリカ軍に筒抜けだった。当時日本軍が使用していた電波を傍受し、暗号を完全に解読していたのだった。当時の暗号は、ミッドウエー海戦の作戦を「MI作戦」と呼ぶなど安易なものだった。こうして、いつどこに日本海軍が現れるか、アメリカ軍は完全に把握していた。また、日本軍には慢心する雰囲気があったという。実際ミッドウエー海戦に参加した空母「加賀」の艦長は戦いに関して「鎧袖一触だ」と言っていたほどの余裕を見せていたという。一方のアメリカは、先の珊瑚海海戦で中破した「ヨークタウン」を一か月で修理してミッドウエー海戦に参戦させるほどの執念を見せていた。日本軍で珊瑚海海戦に参加した空母「翔鶴」「瑞鶴」はどちらもミッドウエー海戦に参加していない。ここから見ても、ミッドウエー海戦に対して心構えが明らかに違っていたことが分かる。ミッドウエー海戦で日本軍は参加した主力空母4隻全部を失う大損害を被った。対してアメリカは「ヨークタウン」を失うにとどまった。ミッドウエー海戦ののち、主力空母と艦載機、熟練搭乗員を多数失った日本軍は空母対空母の戦いに非常に不利になり、続く戦いに勝てなくなっていく。ミッドウエー海戦の2か月後からオーストラリア付近のソロモン海で日本軍とアメリカ軍は戦うことになるが、ここでもアメリカ軍に有効な打撃を与えられず、戦艦や多くの駆逐艦、巡洋艦を失うこととなった。ソロモン海の島に残された人々も多く、救われなかった人々が大量に餓死し、兵器のみならず戦力も多く失った。

 日本軍は、実際はミッドウエー海戦の前からその優勢に陰りが差していた。しかし、珊瑚海海戦で戦術的敗北を喫したことに気づいていなかったり、真珠湾攻撃に成功したころのままの慢心があったりして、一転敗北へと傾いた。戦争は二度と起こしてはならないし、慢心してはいけないということは、日常生活にも生かせる教訓ではないだろうか。

参考文献

・加来耕三、連合艦隊99の謎、二見文庫、1995、165-172

・帝国書院編集部、図説 日本史通覧、帝国書院、2016、280

・「歴史の真相」研究会、日本の軍艦完全網羅カタログ、宝島社、2015、48-49

タイトルとURLをコピーしました