哲学と哲学-学

①序論

 哲学をする、という場合に、少なからぬ人びとが過去の哲学者やその著作について学ぼうとする。世の中にはプラトンやカントを専門的に研究する学者がたくさんいる。しかし、哲学とは、本来は過去の哲学者やその著作に盛られた思想に依ることではなく、むしろ、自ら考えるひとの個人的な思索の結果ではないのか。過去の哲学(者)について研究すること、すなわち哲学史を、「哲学-学」と読んで揶揄する向きもあるが、哲学するわれわれはどう考えるべきなのだろうか。

②本論

 カントは「我々は哲学というものを学習することができない…(中略)…我々は所詮、哲学的に思索することを学び得るだけである」[1] という、哲学徒にはあまりにも有名なことばを遺している。これが人口に膾炙するところとなって、いわゆる「哲学-学」批判があるように思われる。

 しかし、これは直ちに、哲学史を学ぶことが哲学とは乖離した営みであることを意味するのか。確かに、哲学は歴史上の哲学者と思想とを陳列した単なる骨董品のコレクションではない。思想とは徹底的なる懐疑の遂行なしに「膨大な信念を受け入れること」[2]であるとして、中島義道も哲学と思想(すなわち哲学-学)とを鋭く対立させている。けれども、中島自身も認めるように哲学者と哲学-学者は単純に二分できるものではないし[3]、そうするべきでもない。

 哲学史上にあらわれることばとは、われわれよりも前に真に哲学した先人たちの到達点を記録したものである。哲学は先哲の思考の軌跡を学ばずとも独力で行うことも決して不可能ではないけれども、自分だけのものであったはずの哲学を盛ることばは先験的に歴史的文脈の痕跡をとどめており、それゆえ思考が自覚なく先哲のそれと酷似した筋道をたどることも少なくない。「それは地図なしで登山するのに似ている。幾重畳の峰と谷を行く山行に地図が役立つことは言うまでもない」[4] のである。哲学史を学ぶことで、われわれは先人の到達点から思考を再開することができる。

 将棋のルールを教わった子どもは、すぐにでも将棋で思い思いに遊ぶことができる。しかし、歴史上の対局を記録した棋譜を読み、これを盤上で駒を動かしながら研究することによって、新しい棋士は定石を学び、独力によるよりも速く成長できるだろう。哲学者も、このように哲学史に学ぶことによって、より速く、本当に哲学する地平に到達できるのである。

③結論

 哲学-学(哲学史)は哲学とは別物でありつつも、哲学という山地を確かな足取りで進むための地図であることを確認した。もっとも、先哲の哲学について知っていたとしても、それをまったく無批判に継承しようとすれば、哲学は一瞬で単なる思想に堕する。遺産を引き受けるわれわれは、そうする前に、それを一度は徹底的に懐疑してみなければならない。

④ 参考文献

[1]カント(篠田英雄訳)、『純粋理性批判(下)』、1962年、岩波文庫、128頁(原著B866)

[2]中島義道、『哲学の教科書』、2001年、講談社学術文庫、44頁

[3]中島義道、『哲学の教科書』、2001年、講談社学術文庫、273頁

[4]山本巍他、『哲学原典資料集』、1993年、東京大学出版会、はしがきii頁

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