白黒つけられない命題に立ち向かう

①序論

 砂粒が積もって山をなしているとしよう。その砂山から砂粒を一つ取り除くとき、それはやはり砂山だろうか。そうだ、とだれもが答えるだろう。もう一粒取り除いても、さらにもう一粒取り除いても、それは依然として砂山と呼ばれうるだろう。それでは、砂山はどこから砂山でなくなるのか。不思議なことに、どこかの時点でそれは砂山とは呼べなくなるだろう。それでは、「どこかの時点」は実際のところどの時点のことなのか。これは古来、「砂山のパラドクス(Sorites Paradox)」と呼ばれ、紀元前四世紀のメガラ派の哲学者エウブリデスにまで遡ることができるという[1]。

②本論

 古代ギリシアの哲学者が提示したこの問題は、日常生活のあらゆるところに溢れている。たとえば、ひとはどの段階から「太っている」のか、「老いている」のか、「禿げている」のか。通常、「論理的に考える」というと、数学の教科書に見られるように命題を「真」と「偽」のどちらなのか判断することだと考えるひとが多いだろう。しかし、たとえば「老いている」という問題を考えるときに、「…歳からは老いており、それよりも若ければ老いていない」という形式で答えることはできない。

 確かに法律、たとえば、「高齢者の医療の確保に関する法律」では世界保健機関(WHO)の定義[2]に準じて、六十五歳以上を「前期高齢者」、七十五歳以上を「後期高齢者」としている。つまり、六十五歳未満はこの法律上の「高齢者」ではないということになる。けれども、十代や二十代の頃に比べると、四十くらいで「老い」を感じてくることもあるし、七十代や八十代になってもまだまだ「お若い」ひともいる。すなわち、日常語の「老い」は法律上の「老い」よりも広い概念であって、「六十五歳以上ならば老いている」と簡単に割り切ることはできない。

 これは、たとえば、いったん法律を離れてしまうと「六十歳ならば、老いている」という命題の真偽を、真とも偽とも断定できない事例が存在することを示唆している。つまり、数学や論理学の多くの教科書で漠然と想定されている排中律(the law of excluded middle)が、現実世界では通用しない局面も確実に存在していることを示している。

③結論

 論理は現実の事象をプロットして、表現することを目指している。しかし、古典的な論理においては真か偽のいずれかに真理値が固定されて、現実よりも簡素化されている。現実世界をより論理的に、高い解像度で表現するためには真(1)と偽(0)のあいだの真理値 0≦t≦1を認める必要があるのではないか。実際のところ、工学者ロトフィ・ザデーが1960年代に提唱したファジィ(fuzzy)の概念に基づくファジィ論理など、二値にとどまらない多値論理が提案されてきたが、それでは「六十歳は老いている」という命題の真理値が実際のところいくらなのかを具体的数値で以て決定することは容易ではない。

[1] Dominic Hyde & Diana Raffman, Sorites Paradox, Stanford Encyclopedia of Philosophy, https://plato.stanford.edu/entries/sorites-paradox/

[2] 厚生労働省、高齢者、e-ヘルスネット、https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/dictionary/alcohol/ya-032.html

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