日本語で哲学することはできるか

①序論
 哲学とは、どこまでも西洋由来の伝統である。それは古代ギリシアに発祥し、ドイツやフランス、イギリス、アメリカといった西洋の一部の国を主な舞台に発展してきた。興味深いのは、或る国における哲学の発展が必ずしもその国力とは比例しないように思われることである。たとえば、世界史にその名を刻むスペインやポルトガルの哲学というのはあまり聞かない。ラテン語で書かれた哲学というのはたくさんあっても、古代ローマの哲学というのは通常、古代ギリシア哲学の影響をとうとう脱し得なかったものと見なされるのがふつうである。それでは、われわれの言語である日本語で哲学することは可能なのか。

②本論
 この問題について、中島義道は『哲学の教科書』第6章[1]において、上記のような「言語の不平等構造」を嘆いている。すなわち、哲学のいわば<本場>の学者が来日したときには、<本場>のことばであるドイツ語や英語で議論をすることが当たり前になっており、日本語で書かれたカントやロックに関する哲学書はまず<本場>の哲学者が日本語を勉強してまで読むことはありえない、というのである。尚、<本場>のひとつたる古代ギリシアの言語が現代の哲学者たちの哲学的議論にそのまま用いられるというのは、筆者は聞いたことがない。それはあくまでも「原典」として読まれ、翻訳されるに過ぎない。
 しかし、中島が「哲学の死」とまで断じる文化相対主義(西洋には西洋の「哲学」という思想があり、東洋には東洋の、或いは日本には日本の思想があるから、どれが正しいということもないという態度)に逃げ込まずにわれわれが考えつづけるのだとすると、われわれは日本語で哲学することができるのだろうか。中島は言語を信頼し、どこまでも「なぜ」と論理的に問いつづける営みを哲学と見るわけだが、それならば野矢茂樹が『論理学』の冒頭で言っているように[2]、日本語で論理的に考えること自体はもちろん可能であろう。学会発表を目指すわけではないわが国の市井の哲学者が、日本語で哲学することに中島が言うほどの問題はないのではないか。
 それでも、人類史上「哲学」として影響力を有してきた書物が一部の西洋語で書かれていることは疑いようもない事実である。翻訳は便利だがそれだけでは、われわれは容易に誤解にはまり込む。たとえば、「知性」とか「悟性」とか言われると何だかよくわからない深遠なものを指しているようだが、 ‘understanding’ とか ‘Verstand’ と言われれば「なにかを理解する能力のことかな」とずいぶん身近にわかりやすく感じられる。哲学書はどこまでもわれわれのもっとも身近な問題を論じた書物であり、一般人に手の届かないものだというのは幻想である。

③結論
 われわれは日本語で十分に論理的に考えることが、すなわち、哲学することができる。しかし、哲学の源泉たる西洋諸地域の言語を学ぶことも必要である。原典を(翻訳という登山ガイドに付き添われながら)原語で相手にすることで、哲学の旅路に正しく就くことができる。
 

[1] 中島義道、『哲学の教科書』、講談社学術文庫、2001年、pp.282-300
[2] 野矢茂樹、『論理学』、東京大学出版会、1994年、pp.6-9

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