哲学は役に立つのか

①序論
 産学連携が推進され、或る学問が「実学」であることが殊更言い立てられる現代において、哲学は「何の役にも立たない」と言われることも少なくない。実際のところ、筆者自身が哲学の学生だったころにも哲学は他学部の教員からは「古典芸能のようなもの」と揶揄されるのを目の当たりにしたし、当の学生たち自身においても「実学」に対して「虚学」と自嘲する者もあった。2015年には、文部科学省が国立大学法人に対して、哲学を含む「人文社会科学系学部・大学院」について「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組む」よう迫って波紋を広げたこともある[1]。哲学は社会的要請のない、廃止されるべき役に立たない学問なのだろうか。

②本論
 「役に立つ」ということを、短期的に商品化の期待できるアイディアを生み出し、ひいては経済的利益をもたらすことが期待できる、という意味に考えるのであれば、直ちに哲学など不要ということになる。文部科学省がひとくくりにしたように、他の人文系の学問も同様だろう。否、それどころか、法学や経済学といった社会科学の諸分野、理学が扱うような自然科学の基礎研究もそうである。上記の意味で「役に立つ」ということを「社会的要請」と考えるならば、大学という組織の大半が不要となり、後には工学や医学に関する専門大学校とでも呼ぶべき高等職業訓練所が残るばかりだろう。
 哲学者自身はどう考えているのだろうか。哲学者の意見はいろいろに分かれているけれども、たとえば、死を第一の哲学的問題と考える中島義道は「哲学は何の役にも立たない」と認めた上で、死すべき存在として「悩み苦しむこと」と哲学を捉え直すことで、自己すなわち個としての人間の問題に哲学を還元する。[2] しかし、哲学は自己という概念に完全に回収されるものなのだろうか。
 独我論などよほど特殊な哲学的立場をとらないかぎり、世界には自己以外の他者も存在しており、自己は他者との相互関係のなかで生きている。人間は他者との総合関係のなかで影響し合い、新しい世界の見方が繰り返し提案される。学問はこの相互関係の一形式を実現する伝統的な社会装置である。

③結論
 哲学の研究は、通常、(他の多くの人文系の学問と同様に)「古典」と呼ばれる歴史上重要な書物の研究から出発することが多い。一つの古典という横糸について、読み方が無数に編み出され、現代という縦糸がそこに編み込まれることで、ひとつの編み物(テクスト)が構築されていく。哲学を含む人文知の任務は、現代という最新の事柄だけを追うのではなく、「人が忘れたもの(あるいは忘れたいもの)を覚えておき、必要ならば掘り起こして、現にあるものとは異なる世界の在り方を示すこと」なのである[3]。即物的な価値観にあって、直ちには「役に立たない」ように思われる哲学の研究は、しかしながら、人類の思考の多様性を保存し、それを現代に適用する可能性を追究している。

[1] 文部科学省、平成27年「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて(通知)」、文部科学省公式ウェブサイト、https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/062/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2015/06/16/1358924_3_1.pdf
[2] 中島義道、「哲学の教科書」、講談社学術文庫、2001年、pp226-253
[3] 読書猿、「独学大全」、ダイヤモンド社、2020年、pp.350-351

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