奈良時代:玄宗との交流と日本文化の黄金時代
奈良時代は、710年から794年まで続いた平安時代の前半に位置する、日本の歴史における重要な時代です。邪馬台国時代から古墳時代を経て天皇制度の形成を経て、奈良時代は近代日本の先駆けとも言われるほど、日本文化や政治体制の発展期でした。
奈良時代の政治の中心は大和朝廷でした。中でも特に、天皇の即位から約50年経過していた皇極天皇と、唐の繁栄期の時期に君臨した唐玄宗との交流は注目に値します。
7世紀半ばに、唐の女傅氏が日本に来ていたことがあります。そして、唐から日本に誕生日を送られた皇太子(後の皇極天皇)は、そのお礼として、日本から唐に使者を派遣しました。それが、694年から北魏の都の長安に飛び、当時唐武則天の治世下にあった唐玄宗に謁見を果たした、長安使いのことです。唐玄宗は、日本との外交を重視し、大きな歓待をしました。それが、奈良時代から唐との交流が活発になった契機といえます。長安使以来、中央政府(皇室)のみならず、各地の有力者たちも度々唐に行きました。
その結果、唐から日本に多くの文化的な知識が入り込んできました。例えば、仏教が全盛期であった唐から、仏教文化も入ってきました。その結果、大きな寺院や仏像などが造られ、日本文化の発展を促しました。また、唐の政治や文化の影響が強くなったことにより、日本に国家形式的な政治制度が整備されることとなりました。具体的には、職業制度の整備、位階制度の確立、三省六部制度を導入するなど、待望される国家的な政治体制が整備されました。
奈良時代には、鑑真が唐から渡来し、天台宗や律宗などの仏教が、更に日本の仏教文化を豊かにしました。 一方で、国風文化を重視するようになったことから、日本独自の文化が形成され始めました。文学では、万葉集の侍鞍覧や、続日本紀などが編纂され、芸能でも、能や狂言が生まれました。そして、こうした国風文化と、外来文化の融合が奈良時代の文化作品を作り上げました。
しかし、一方で、唐玄宗に近づくために各地の有力者同士が争い、変則的な支配地域ができあがり、次第に国家体制が不安定になっていきました。その後、平安時代に移っても奈良の地位は失われ、同時に唐の華やかさも終わりました。それでも、当時の文化的な花開きが、日本人の精神的な礎となり、近代文化を形成することとなりました。