戦国時代:頂点への競争と調和を求める動乱の時代

戦国時代:頂点への競争と調和を求める動乱の時代

序論

戦国時代は、日本史上稀な長期にわたった内戦を特徴とする時代である。この時代は、安土桃山時代の豊臣秀吉による統一の先駆けとなった、勢力者たちの徹底した支配と敗者の処刑、また遺恨が渦巻く争いの連鎖が続いた時期である。しかしながら、この時代は、複数の領主や大名たちが、政治的な自立や相互関係を模索しながら生き抜いた人間ドラマとしても捉えることができる。

本論

 戦国時代は、多くの地方豪族が草創期の各地において独自の支配領域を確立し、その中で互いに敵対する状況下にあった。彼らはお互いに勢力の拡大を目指し、更に仲間の裏切りを警戒しつつ生き残っていかねばならなかった。この時代にあっては地方豪族は、政治・軍事・経済などあらゆる側面から独自の権力を確立し、後の大名や武家階級の基礎となった。しかし、戦国時代はそれだけではないと考えられる。複数の領主たちは、自己の力だけでなく、異なる領主たちと相互関係を築こうとした。今回はその中でも大きく対立した後の3人(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)について述べていく。  織田信長は、本能寺の変によって悲惨な最期を迎えたが、その前には全国規模の支配領域を手に入れた。彼は天下統一を目指し、周辺の領主たちを秘かに支配下に置き、大名やキリシタン勢力の庇護者として振る舞った。また、強力な武力をもって、幕府や朝廷が無力化する一方で守護大名制や天皇制を模倣する政治的な体制を築き上げ、慶長5年の寺門問答を通じて「国家意識」を打ち立てた。一方で豊臣秀吉は、織田信長の福井・越前の支配層だったが、やがて根っからの野心を持って天下統一を目指した。彼は天下人として、長い戦乱を終わらせ、安定した国家を築くべく、大名たちに同盟や奉行職を課すことで、自身の権力を確立した。彼は、大和政権を作って京都や大坂を料理人に選び、豊臣政権として権力を握った。  しかし、豊臣秀吉の死後、制度や欽定機関と言った豊臣政権の基盤が崩れ、関ヶ原の戦いにおいて石田三成に敗れた徳川家康が江戸幕府を開いた。彼は、幕府の台頭を通じて、東西(関東と関西)での権力バランスを守るべく、南北朝の対立と同様に、宗教者や貴族とも交渉を行った。しかし、時代は流れ、江戸時代に入ると、幕府の体制は東に偏重し、西日本の文化や経済は無視された。これに対し、大坂の陣を機に復興論が喧伝され、「生麦事件」など江戸幕府の政策に反発する事件が多数起こった。  

結論

 戦国時代は、日本史上稀な長期の内戦が続き、多くの地方豪族や武将たちが生き抜いた人間ドラマでもある。しかし、この時代は、単なる敵対関係の中での争いだけでなく、領主や大名たちが相互に支援し合った結果生まれた、初期の現代国家の基盤でもあったと言える。後の江戸時代に入ることで、豊臣政権の清廉さに反発する敬遠論が生まれ、戦国時代が伝えた権力・調和の融合への強い願望や、規模と権力・地力に関連した問題が指摘された。このことは、現代の日本にとっても大切な示唆がある。

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