【序論】
本論文は、シジウィックの倫理学における普遍的な道徳原則の探求に焦点を当てるものである。シジウィックは、道徳の基礎となる原則を求める際に、従来の倫理学における普遍的な道徳原則の存在を疑問視した。彼の倫理学は、個々の行為の結果や善悪の評価よりも、人々の行動を規範づける原則自体に注目する。この視点から、シジウィックは人々の欲求や快楽を基準とした行動の結果を重視し、最大多数の幸福を追求する「功利主義」を提唱した。しかし、この主義もまた一定の批判を受けてきた。本論文では、シジウィックの功利主義の根本的な問題点を明らかにし、それを補完する可能性のある普遍的な道徳原則を探求する。具体的には、シジウィックの視点から描かれる個々の行為や結果にとらわれることなく、普遍的な道徳原則を導き出すためにどのようなアプローチが可能かを考察する。
【本論】
シジウィックの倫理学における普遍的な道徳原則の探求にはいくつかの問題が存在する。まず、シジウィックの功利主義は、結果に基づいて行動を評価する手法であるため、個々の行為や結果を重視する傾向がある。しかし、このアプローチにはいくつかの批判がある。例えば、ある行為が結果的に多くの人々の幸福をもたらすと評価されるかもしれないが、その行為が不正や不公正な手段で達成された場合、我々はそれを倫理的に許容できるとは考えないだろう。 また、シジウィックの功利主義は、人々の欲求や快楽を最大化することを目指しているが、これには幸福の概念に関する問題がある。幸福は個人によって異なる解釈がされることがあり、ある人にとっては快楽が幸福であると考えられるかもしれないが、他の人にとっては他の要素が幸福につながると考えられる場合もある。そのため、一律に快楽を追求することが最も重要とされるのは疑問である。 以上のような問題点により、シジウィックの功利主義には補完が必要であると考えられる。そこで、本論文では普遍的な道徳原則を探求することを目指す。普遍的な道徳原則とは、個々の行為や結果にとらわれず、人々の行動を規範づける原則である。この原則は、ある行為や結果が最大多数の人々の幸福につながるかどうかに関係なく、倫理的に正しいとされるものである。具体的な道徳原則はまだ明確になっていないが、人々の共通の価値観や人権、公正さなどを考慮に入れることが必要であると考えられる。 この論文では、シジウィックの功利主義の問題点を明らかにし、それを補完する可能性のある普遍的な道徳原則を考察する。さらに、個々の行為や結果にとらわれることなく、普遍的な道徳原則を導き出すためのアプローチを検討する。これにより、シジウィックの倫理学における道徳原則の欠点を補完し、より包括的で妥当な倫理的な枠組みを提案することができるのではないかと考えられる。
【結論】
本論文では、シジウィックの功利主義に対する批判を扱い、それを補完する可能性のある普遍的な道徳原則を探求する。シジウィックの倫理学は、行動の結果や善悪の評価よりも、行動を規範づける原則に焦点を当てている。彼は最大多数の幸福を追求する功利主義を提唱したが、この主義には一定の批判が存在する。本論文では、シジウィックの視点から捉えられる個々の行為や結果にとらわれず、普遍的な道徳原則を導くアプローチについて考察する。結論として、シジウィックの功利主義には根本的な問題点があり、その補完には従来の普遍的な道徳原則を組み込む必要があることが示される。これにより、個々の行為や結果にとらわれずに普遍的な道徳原則を基準として行動することが重要であることが明確となる。