「近代日本における教育政策の変遷」

「近代日本における教育政策の変遷」
近代以前の日本は、教育・学問は主に身分の高い人々が受け、一般庶民には門戸が閉じられていました。しかし、明治維新以後、日本人の教育水準が向上し、その後の社会・経済の発展にも大きな役割を果たしています。ここでは、近代日本における教育政策の変遷を概観し、その特徴や影響を考察していきます。

明治維新に際して、新政府は「富国強兵」をスローガンに、国策としての教育政策を打ち出しました。ここで重要なのが、教育制度の西洋化です。新政府は、欧米諸国に軍事・技術面での徒弟としての留学生を派遣する一方、欧米諸国の教育制度を熟究し、日本の教育制度にもそれを導入していきました。その結果、違法な子女等教育施設の設置禁止令(前教育令)や新学制の制定、そして、普通教育を進めるために、主として教員養成を目的とする高等教育機関等の設立などが行われました。幕末の私塾や寺子屋に続いて、全国的な学校教育が整備されていく過程で、教育制度も大きく変革されました。

その後、日本は第一次世界大戦に参戦、それに続く世界恐慌の影響を受け、国内情勢が大きく変化していきます。太平洋戦争後、GHQによって新しく教育制度が定められ、現在に至るまで、数々の改革や変更が行われています。それでは、教育政策の変遷のなかでも、大きな転換点となった時期を細かく見ていきましょう。

1900年代後半に入ると、アメリカ合衆国の高等教育制度は私学中心のものになってきていました。これを背景に、日本でも早稲田大学/慶応義塾大学のような私立大学の設立が進み、日本の大学教育は私学を中心とするものに変わっていきました。
これに対して、一部の教職員や学生は、「二次戦後の自由主義教育」を求める運動を展開し、国民的な反動が生まれました。しかし、公立大学はそれまでにはありましたが、制度やカリキュラムの問題から高等教育を受ける環境は不十分であったとされます。そうした中、GHQによる日本占領時の民主化政策の一つとして、1946年に「平和主義的教育基本法」が施行され、一大改革が行われます。この基本法は、第9条で「思想不自由の基本的原則」を明文化し、第11条で、「学問の自由の保障」を謳っています。

戦後、日本においてはGHQによる民主化の必要性から、教育機関の統廃合が行われ、学校教育における「免除制度」(学費免除等の制度)が導入されたほか、公の教育機関は政治から独立し、公正で民主的な教育を提供することが求められました。これらの変化は、当時の諸外国と大きく異なるものであり、今日の日本が抱える教育問題の可能性が生み出された契機となったと言えます。

さらに、1950年代には、教育問題が表面化していきます。第一次義務教育の拡大、高等教育学術研究費等交付金制度の創設、放送大学法の制定など、様々な政策が実施されました。また、教育制度の「国際化」が奨励され、日本人学生が多数海外留学するようになったことにより、高度専門性を持った人材の育成につながりました。さらに、1960年代に入ってからは、特に実務的な技術高等教育の必要性が増大し、国際化や産業の発展に対応する教育制度の改革が重要性を増しました。

日本国内における教育制度の特徴として、一般的には「官民一体の教育体制」とされています。私立大学なども含めた教育活動が、教育委員会や学校基本法に則って統合的に管理されています。これは、学校教育が公共の財産であり、適切な管理が求められるため、国家・自治体だけでなく、民間にも関与を求めたと言うことができます。一方、この形態の教育体制が招いた問題事例もあります。たとえば、現在も社会問題として叫ばれる「教育格差」を産み出してしまったことが挙げられます。

総括すると、日本の教育政策については、明治以降の西洋化政策や一世一元制の成立、世界恐慌・戦争を通じた変化、GHQ占領による改革、高度経済成長期の教育制度改革、現代に至るまでのさまざまな変遷があらゆる角度から影響を与えてきました。一方で、教育が進歩を遂げ、日本の多角的な発展に道筋を示す重要な役割も果たしており、国民の生活を支える大きな機能の一つとして位置付けられています。今後も、教育政策に対する改革は必要であり、常に社会変化に敏感に対応し、人材力を維持することが望まれます。

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