「フジモリの政権下におけるペルー社会の変容とアンデス文化の存続」

「フジモリの政権下におけるペルー社会の変容とアンデス文化の存続」

ペルーは、南米のアンデス山脈に位置する国であり、長い歴史をもつ文化的背景を持った国である。しかし、20世紀末において、同国では深刻な政治情勢が生じていた。1990年、ペルーではアルベルト・フジモリが大統領に選出され、一部の市民からは期待する声があがったものの、当時の政府は人権侵害や抑圧、貧困、中央集権化などが指摘され非難される政治状況下にあった。そこで、本レポートでは、フジモリ政権下でのペルー社会の変化とアンデス文化の現状について考察する。

フジモリ政権の特徴を振り返ると、当時のペルーはテロリストや麻薬組織などの犯罪組織が顕在化しており、社会に対する衝撃が大きかった。フジモリは、この社会混乱の解決策のひとつとして、軍事政策を採用した。武力制圧を目的として、警察や軍を動員し、計画的な拘束・拷問・処刑などの手段を用いることで、テロリストの摘発に取り組んだ。また、彼は非常に中央集権的な政治構造を築き上げ、国会や司法制度から自分の力を引き上げ、政府の権限を恣意的に拡大したと言われている。結果として、民主主義や基本人権を蔑視し、人々が恐怖におののく政治体制が確立されていった。彼が実行してきた国政根本方針を、ドゥキュメンテーラリストの日比野康子は次のように述べている。

「国軍と国家警察を利用した新しい治安政策は、ペルーで起こっている政治暴力や社会現象に対する戦略的な対応策として表現された。多くのペルー人がこの政策に対する不満を表明したにもかかわらず、フジモリ大統領は強力に推し進めた。」

アンデス文化とペルー社会の変化

以上のような政治状況の中、アンデス文化が抱える課題はますます深まっていった。一方で、フジモリ政権下でアンデス文化に一定の関心が向けられたことも否めない。それは、同政権による予算配分や文化政策の推進によって、一定の助けを受けたという側面がある。

アンデス文化とは、主にペルー南部の高地地域に生息する先住民族の文化である。その特徴は、農耕と牧畜を中心とし、織物、陶器、音楽、踊りなどの文化や伝統に代表される。また、アンデス文化は、スペイン統治下の梃子摺によって、宗教や社会的な秩序の影響を受けながらも、独自の倫理や道徳を保ってきた。

しかし、20世紀末に入ると、アンデス文化は普及し続ける近代社会との間に大きなギャップが生まれてきた。その結果、アンデスの人たちは劣悪な状況に晒され、先進的な考え方・技術が浸透していく中で、文化の保護と伝承が重要視されるようになっていった。こういった状況の中、フジモリ政権は自国民の生存権を守るため、アンデス地域に対してさまざまな政策を推進することで、文化を保護することが必要であると考えた。

フジモリ政権とアンデス文化の取り組み

当時、フジモリ政権は文化イベントを多数開催し、アンデス地域の祭りにも拍車をかけた。例えば、クスコ州で毎年開催される金曜日祭りや、ピサコ・ウンセラ・チャンチャム生誕の祭りなどがあげられる。

また、政権はアンデス地域の改良にも投資した。主に水道整備を中心に、衛生、医療、エネルギー、道路建設、マイクロファイナンスなどの取り組みが進められた。これにより、アンデス地方において農村開発が進み、女性の社会進出や教育の普及などが開始された。

アンデス地方に対する政策や改良の結果、アンデス文化は一時的に回復したものの、アルテナティブ・グローバリゼーション論である藤井崇によると、この取り組みは先住民族に対する無理解や搾取を表現するものでもあったと分析する。また、例えば文化の商業利用や、アンデス地方における水利権の問題など、彼の指導によって問題が顕在化した。

結論

フジモリ政権下のペルー社会は、テロ事件後の恐怖と暴力、少数党支配や人権侵害、文化政策の樋渠主義、中央集権化などにより、自由で民主的な状況から程遠いものとなっていった。また、アンデス文化が抱える問題に対する差別化の必要性、アンデス人の多面的な優位な世界観の欠如、長年の貧困など様々な問題が表面化していた。しかし、フジモリ政権下にアンデス人の生存を守るような政策や改良が行われたことも事実であり、アンデスを取り巻く状況を理解し、助けられた人々がいることも確かである。アンデス文化を活かしながら、社会変容に対しての戦いが繰り広げられるのみならず、アンデス人にとっても、文化伝承や国家開発事業に影響を与える面があると考えられる。

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