福原遷都が『方丈記』において災害と言われる訳
『方丈記』に描かれた五大災厄の中で、安元の大火、治承の辻風に次いで三番目に登場するのが、福原遷都である。他の項目が大火や辻風などの「天災」なだけがあり、都が移されたという政治的事変である福原遷都は、他とは一線を画するものを感じるものがある。現代の私たちからみて違和感があるこの章は、いかに描写されていたのか、考察していくこととする。
まずは『方丈記』にはこの福原への遷都がいかに描かれているのかを見ていくこととする。「又治承四年水無月の比、にはかに都遷り侍りき。いと思ひの外也し事なり。おほかた此の京のはじめを聞ける事は、嵯峨の天皇の御時、都と定まりにけるよりのち、すでに四百余歳を経たり。ことなる故なくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人やすからず、憂へあへる、実にことわりにも過ぎたり。されど、とかくいふかひなくて、帝よりはじめたてまつりて、大臣公卿みな悉くうつろひ給ひぬ。世に仕ふるほどの人、誰か一人ふるさとに残りをらむ。官位に思ひをかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりともとくうつろはむと励み、時をうしなひ世にあまされて、期する所なき者は、憂へながらとまりをり」(注1)。この「にはかに」という言葉が表す通り、この遷都は突然行われたということがわかる。この京都の地の都を振り返ると、桓武天皇時代の平安京が794年に遷都がされたことに遡る。遷都は400年ぶりの出来事で、貴族たちの意識の中には想像すらできない事件であった。遷都という重要な国家行事をどう遂行してよいか、誰も知らない。それにもまして、あまりにも突然の出来事を前にして、人々は準備も心構えも全くできず、ただただ当惑し、混乱するばかりであったのである。「世に仕ふるほどの人(中略)憂へながらとまりをり。」とある通り、平清盛に仕えていた者は皆、彼についていき、急遽都を出る準備をしないといけなくなったのである。「時をうしなひ世にあまされて」という表現から、長明はこの突然の遷都を「人災」に属する災害と記したように見て取れる。都が急に遷ることに関して、身分が高い人も、そうでない人もただただ困惑を強いられ、そのように嘆いても仕方はなく、遷都は実行されたのである。
いずれにせよ、遷都は急に実行され、人々を混乱に落とし込んだということは、長明の描写から受け取ることができる。大火や辻風のような「天災」だけでなく「人災」を災害の一つとして捉えていたのである。『方丈記』全体に描かれた「世の無常」は自然現象だけでなく、政治的事変も常ではないと記しているのである。
【参考文献】
※1『新訂方丈記』:市古貞二、株式会社岩波書店、2013年4月5日、十四頁~十五頁