福田恆存と三島由紀夫に見る戦後保守思想
序論
2020年は、三島由紀夫の没後70周年というタイミングで、三島の再評価が行われた。その回顧的な企画は、戦後の日本文化を語るためには、避けることができないような意義をもっている。
しかし、私には、どちらかといえば、三島よりも、彼の晩年に対談相手となっていた、福田恆存のほうに軍配を上げたくなる。福田は、文化的な問題については三島と同意見でありながら《楯の会》のような政治的な行動主義には走らなかった。
福田と三島は、ともに、わが国の保守思想について、文学者としての立場から論じていた。彼らの思想にも、共通する部分があった。
しかし、それにもかかわらず、実践論においては、まったく異なる答えを出している。
本稿では、それぞれの言説の比較や、彼らについての事実をたよりとして、保守の概念を考察しようと思う。また、言説を引用するときには、旧式仮名遣いの部分は、それぞれの作家の意図を考慮して、そのままの引用とさせていただくこととする。
本論
Ⅰ.日本文化について
日本の近代化は、西欧化や資本主義化とともにやってきた、というのが、福田の認識だった。したがって、その近代化は、西欧における産業革命や資本主義化と関係なく、やむをえずなされた近代化だった。福田は《伝統にたいする心構――新潮社版「日本文化研究」講座のために》において『西洋文明を受け入れることは、同時に西洋文化を受け入れることを意味します。和魂をもつて洋才を取入れるなどといふ、そんな巾着切のやうな器用なまねが出来ようはずはない。和魂をもつて洋魂をとらへようとして、初めて日本の近代化は軌道に乗りうると言へるのです』と断言する。
ここで、福田は『文化』という語を強調している。戦後すぐには『文化』といえば、すなわち、西洋化したものや都会的なものを意味していた時期があったことを振り返っているのである。たとえば『文化住宅』『文化七厘』などといった用法は『文化遺産』という現代でも馴染みのあるような意味とは異なる。
ただし『文化遺産』さえも、福田が考えるような『文化』を意味するものではなかった。彼は、空襲で焼け残ったそば屋に愛着をおぼえた経験をもととして『法隆寺や桂離宮よりも、そのそば屋が焼けてしまふことのはうがさびしいと感ぜられたものです』という。つまり、自分の文化を形作るものは、かならずしも文化財というわけではない。
三島が1968年に発表した《文化防衛論》で繰り返し述べている『文化主義』という語は、どちらかといえば、後者の用法で使われている。『文化主義とは一言を以てこれを覆えば、文化をその血みどろの母胎の生命や生殖行為から切り離して、何か喜ばしい人間主義的成果によつて判断しようとする一傾向である。そこでは、文化とは何か無害で美しい、人類の共有財産てあり、プラザの噴水の如きもの(フラグメント)である』と三島が述べたのは、西欧化・近代化イコール文化という世論が形成されたことによって、日本文化の有害な部分(武士道などといった、悲劇的な部分)が抑圧された、という意味だ。『すなはち「菊と刀」の永遠の連環断ち切つて、市民道徳の形成に有効な部分だけを活用し、有害な部分を抑圧することだつた』。GHQは、大戦後、日本を占領して、非軍事化し、社会制度や文化を民主化した。天皇が1946年の詔書で、みずから神格性を否定したことは、日本を民主化させるための政策の一環だった。
三島によれば、天皇はただ政治概念であるというだけの存在ではない。天皇は、また、日本文化の再帰性・全体性・主体性という三つの特徴の象徴でもある。
つまり、三島は、天皇を政治価値および文化価値として考えて、日本という国家の究極的価値を天皇に置いた。
Ⅱ.福田の『二重性』と、三島の『同一視』
二重性の意識は、福田の保守思想を読み解くために重要な概念である。三島との対談でも、福田は『二重性』という言葉で天皇の神性を語った。彼は《人間・この劇的なるもの》において、人間の生の問題を、演劇上の問題から類推している。『一口にいえば、現実はままならぬということだ。私たちは私たちの生活のあるしまたりえない。現実の生活では、主役を演じることができぬ』という人間の弱さが、福田の現実感の根本にある。
『私たちが真に求めているものは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起るべくして起っているということだ。そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめ、なさねばならぬことをしているという実感だ』と述べた。そして、その必然性のもとで生きるという実感を得るための、二重の生き方を、福田は『演戯』とよんだ。たとえば、福田によれば、シェイクスピアが書いた悲劇である《ハムレット》では、主人公ハムレット王子は、理想家でありながら現実家である。その二重の現実を生きる姿は、人間そのものである。
ただし、その二律背反は、矛盾というわけではない。むしろ、それは、ハムレットが『無垢な心』をもった『徹底した意識家』であるために発生する、悲劇的な筋書きだ。
悲劇的な人物の死について、福田は『悲劇的な人物をまねたいという衝動を、作者の心に、あるいは役者や見物に起させるのは、その行為が「立派な、あるいは典型的な、そして完璧なる行為」であるからだ』と述べた。
しかし、この論は、悲劇的な死を肯定しようとする意見ではない。すぐ後で、彼は『私たちは死の先手を打つことによって死に勝つことはできない(……)。偶然のなかに自分を突き放すこと、のみならず、できうるかぎり必然を避けること、そうしなければ、私たちは自分の宿命に達しえない』という、宿命を必然とするために必然的な死を避けようとする態度が、ハムレットなどといった、シェイクスピア悲劇の主人公たちだったという。
そして、このようにして生を充実化させる方法が、葬式などといった民衆の行事となって、残されている、というのが福田の見方だった。
二重性は、三島の思考においては、葛藤を生むものとはみなされない。三島は、理想と現実の一致を望んだ。《革命哲学としての陽明学》において、彼は、大塩平八郎の『帰太虚(万物の源に帰る)』という説を挙げて『聖人がわれわれの胸奥に住むならば、その聖人とわれわれとは同格でなければならない(……)。このような同一化の可能性が生じないで、ただおとなしくこれを学び、ひたすら聖人に及ばざることのみを考えているところからは、決して行動のエネルギーは湧いてはこない』と、大塩の行動主義を称賛した。
そして、三島は、武士道に影響を与えた陽明学を、日本的な革命理論と解釈した。
三島が武士道にこだわったのは、戦後の日本人の『死の衝動をどう処理するつもりだ』という疑問からきていた。
Ⅲ、保守とは何か
福田の保守思想は、民衆的な人間観にもとづいている。この点は、三島の貴族主義とは反対である。福田にとって、保守というのは、政治的な主義としての『保守主義』ではなかった。福田が《私の保守主義観》で示した『(……)保守的な態度といふものはあつても、保守主義などといふものはありえないことを言ひたいのだ。保守派はその態度によつて人を納得させるべきであつて、イデオロギーによつて承服させるべきではないし、またそんなことは出来ぬはずである』という態度としての保守は、彼が浦和高等学校の学生だった時期から一貫していた。《浦和時報》という学内新聞に福田が寄せた文章にも、学生運動にたいする彼の否定的な考えが表明されている。
合理的な論理にもとづいた政治行動は、敵の存在を確認しなければ成立しない。このことは、革新派だけではなく、保守派にも同じことを言うことができる。
三島の《革命哲学としての陽明学》も、一見すれば、あたかも合理性を否定しているかのように語られている。
しかし、陽明学にもとづいた日本的革命を想定したことには、理論的矛盾があった。なぜなら《文化防衛論》で述べられたとおり、日本文化が再帰性をもつ文化なのだとするならば、自我を太虚に帰する革命という非合理な行動主義さえも、まったく逆の力学のための過程にすぎないものとなるからだ。
結論
三島自身が悲劇的な死を遂げてしまったことには、さまざまな説明がなされてきた。
おそらく、三島は、日本文化と武士道精神を、あまりにも強く結びつけすぎてしまっていたのだろう。
しかし、日本文化のうち、全部が武士道精神でつくられている、というわけではない。変わらない部分もあるけれども、やはり、少しずつ革新していく部分も含めて、日本文化を捉えることが真実に近いだろうと思う。福田の保守論は、その斬新的改革という道を残している。
また、船曳建夫が述べたように、日本人論は、しばしば『日本人たち』という視点をもたずに、日本人を単相的に捉えようとしてしまう、という誤りを犯してしまうことも事実だ。つまり、さまざまな日本人像があって当然であるにもかかわらず、それらを一括に論じようとするために、極論に陥るのである。
船曳によれば、さまざまな日本人論は、近代化によって生じた日本人のアイデンティティの不安を取り除くために書かれてきた。
戦後の日本にも、そのような、民主化にともなうアイデンティティの不安があった。福田や三島の論は、日本人像や日本文化が変革を強いられた時期に、彼らが文化の担い手としての役割を背負うこととなったために、必要となった。
ただし、三島が武士道的な行動主義によって左翼の臆病さを露呈させようとしたこととは異なり、福田は、ただ保守的であろうとする態度を示すことがほんとうの保守だ、ということを説いたのである。
【参考文献・資料】
福田恆存《保守とは何か》(文春学藝ライブラリー、2013年)p.114〜141、p.180〜184、p.185〜234
福田恆存《人間・この劇的なるもの》(新潮文庫、1961年)p.10〜22、p.50〜62
《決定版 三島由紀夫全集 35》(新潮社、2003年)《文化防衛論》p.15〜51
《日本の歴史26 よみがえる日本》(中公文庫、1974年)p.64〜66、p.69〜70
田中浩《戦後日本政治史》(講談社学術文庫、1996年)p.93〜108
三島由紀夫《若きサムライのために》(文春文庫、1996年)p.137〜141、p.205〜266
川久保剛《ミネルヴァ日本評伝選 福田恆存――人間は弱い――》(ミネルヴァ書房、2012年)p.1〜31
船曳建夫《「日本人論」再考》(講談社学術文庫)p.3〜12、p.24〜48