村上春樹「パン屋再襲撃」が示唆するもの

①序論
 村上春樹著「パン屋再襲撃」は、真夜中に空腹を抱えた夫婦が、空腹の原因である「呪い」を解くためにパン屋を襲撃する、という話である。タイトルで再襲撃というからには最初の襲撃があるはずで、「僕」は若い頃友人と共に飢えを満たすためにパン屋を襲撃した過去を持つ。この最初の襲撃については、短編「パン屋襲撃」として1981年に発表されている。一見ナンセンスなコメディタッチで描かれた当作品が、何を示唆しているのか考察したい。

②本論
 主人公は一度目のパン屋襲撃について妻に話した際、「なぜ働かなかったの?」と問われて「とにかく働きたくなかったからさ」と答える。この言葉からは資本主義へのアンチテーゼや、「絶対に働いてなんかなるものか」というモラトリアム的な主張が感じられる。働きたくないからパン屋を襲う。これは彼らにとって小さな革命であったのだろう。
 しかし、襲われたくなかったパン屋の主人が「自分の好きなワーグナーを聴いてくれたらパンをあげよう」といった提案を持ちかけてくる。「僕」たちは戸惑うが結局パンの対価として音楽を聴くことを了承する。これは、当初労働を断固拒否していた「僕」にとって本当は犯してはいけなかった妥協であった。つまり「僕」は主義、主張を変えてしまったのである。
 もしパンの対価に皿洗いを要求されていたなら主人公たちは無慈悲にパン屋を縛り上げて襲撃に成功していたはずだ、と本文にある。労働とは言い難く、嫌なことでもない「音楽を聴くこと」が提案されたため「僕」たちは混乱してそれを受け入れてしまった。音楽を聴くことは労働とは言えない。しかし、対価ではある。「僕」にとってそれを受け入れたことは、自らの主義主張を曲げた一種の妥協であり、これが「呪い」となったことは明白である。一番大切なモラトリアム的主張を変えてしまったことが、今の「僕」に暗い影を落としている。
 物語の後半では、この「呪い」の呪縛を解消するために再度パン屋を襲うというユニークな展開になる。パン屋が見つからなくて結局マクドナルドを襲うことになったり、妻が散弾銃を隠し持っていたりとユーモアのある展開が続く。
 結局、妻と共に行ったパン屋再襲撃は成功したのだろうか。物語の序盤で海底火山の比喩が出てくるがこれは「僕」の鬱屈とした感情そのものだろう。火山はいつか噴火するものであり、それは明日かもしれないし十年後かもしれない。襲撃前、「水が透明すぎて距離感がつかめない」存在であった海底火山は、再襲撃を経て「透明度が下がり見えなくなった」状態になる。僕の鬱屈とした思いは一度は解消されたように思われるが、なくなったわけではなく、再発する可能性も大いにあるということを読者に予見させる。

➂結論
 主人公は、資本主義社会に反抗するという信念を持っていたにも関わらず、妥協の上で社会に取り込まれてしまった。そんな鬱屈とした感情が、海底火山のように「僕」の心の中で噴火する瞬間を待ちわびていた。それが「パン屋再襲撃」の背後にあった大きな理由なのではないだろうか。村上春樹はこの作品で、社会に取り込まれざるを得なかった人間の悲哀と、埋まる事のない喪失感、飢餓感を示しているのだと考えられる。

④参考文献
・『「パン屋再襲撃」ー非在の名へ向けて』森本隆子
 國文學 : 解釈と教材の研究40巻4号 p90-94 発行日 1995-03-10

・『抑圧の反復:「パン屋再襲撃」論」王書瑋

 千葉大学人文公共学研究論集40巻 p36-48  発行日 2020-03-27

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