私は世界に独りぼっちなのか

① 序論

 独我論(solipsism)と呼ばれる世界の捉え方がある。いくつかの変種が存在するが、たとえば、次のような考え方である。世界とは、とどのつまり、私が見聞きしていることの総体に過ぎない。すなわち、私の外に物理的-客観的世界が広がっているのではなく、私の主観こそが世界なのである。私が私の主観的世界から出られることはなく、主観を介さずに私が客観的世界に入り込むことも決してできない。そして、そのとき、すべての他者は私が主観的に観測する対象に過ぎない。なおかつ、私自身はすべての他者を観測しながらも、私自身を観測することのできない唯一の実在である。ゆえに、私は世界に独りぼっちなのではないか。

② 本論

 独我論は、哲学史的にはデカルトやバークリにその萌芽が見出されることが多いが、「私は私の世界である(命題5.63)」[1] ということばで明確に独我論を打ち出した現代の哲学者に、『論理哲学論考』を著したころの若きウィトゲンシュタインがいる。彼によれば「独我論を徹底すると純粋な実在論と一致することが見てとられる。独我論の自我は広がりを欠いた点にまで縮退し、自我に対応する実在が残される(命題5.64)」 [2] 。

 しかし、この議論には避けがたい弱点があるように思われる。すなわち、独我論を言語を用いて説明するという私がいままさに行っている行為は、既に読者という受信者を暗黙裡に前提してしまっている。ウィトゲンシュタイン自身が「語りえない」世界の限界と見る自我を、私という他我が読み、理解してしまっている。古田徹也によれば、他者が介在することを構造的に想定する言語というもので独我論を表現しようとすると、「どうしても、自分は他の人間と違う特別な存在だと主張する自己中心主義(あるいは、無意味なうわごと)に変質してしまう」[3] 。「自分しか存在しない」という主張を言語そのものが構造的に許容できないために、「自分だけが特別だ」と他者に主張しているように響いてしまうからである。したがって、当のウィトゲンシュタインにしたがうと、独我論者にできることはただ世界について黙々と記述することだけなのであって、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない(命題7)」[4] ということになる。

③ 結論 

 序論では他者が存在することの根拠を主観、すなわち自身の感覚に漫然と求めていたが、実は他者は言語という装置にあらかじめ組み込まれている概念である。すなわち、言語を使用する者は先験的に他者を想定せざるをえない。それゆえ、言語で以て、独我論を学問的に主張することは不可能なのである。

④ 参考文献

[1] ウィトゲンシュタイン(野矢茂樹訳)、『論理哲学論考』、2003年、岩波文庫、116頁

[2] ウィトゲンシュタイン(野矢茂樹訳)、『論理哲学論考』、2003年、岩波文庫、117頁

[3] 古田徹也、『シリーズ 世界の思想 ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」』、2019年、角川選書、272頁

[4] ウィトゲンシュタイン(野矢茂樹訳)、『論理哲学論考』、2003年、岩波文庫、149頁

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