田山花袋の『蒲団』は、主人公の竹山時雄が弟子である横山芳子に抱いた恋心を描いた作品であり、日本の自然主義文学の先駆けとされる。自然主義とは一般的に客観的な描写と人間の愚かしさ、恥ずかしさを表現するものであるとされているが、一種の私小説の形式をとる作品が多い。『蒲団』もその例にもれず、時雄と芳子の関係はそのまま花袋と岡田美千代という女性をモデルにしている。そもそも、私小説は、西欧からの影響を受け政府が国民皆学の方針を決定したことによって、庶民の知的水準が上がり小説を楽しめるようになった頃に確立した。『蒲団』からは、西欧文化の流入によって急速に近代化が進む中で芽生えた自我、それに対するとまどいを感じることができる。
物語は妻子持ちの売れない小説家、時雄のもとに時雄のファンであるという女学生、芳子が弟子入りするところから動き出す。時雄は若い芳子をかわいがるが、その心の奥には師というだけではない恋情がひそんでいる。物語の後半で、時雄は芳子への気持ちを性欲である、と告白している。
しかし、時雄は芳子個人に肉体的欲望を抱いていたわけではなかったのではないだろうか。そのことは「(芳子は)美しい顔というよりは表情のある顔、非常に美しい時もあればなんだか醜い時もあった。」という描写からもうかがい知ることができる。時雄が芳子に劣情を抱くのは常に芳子がその知性、自由さ、若さを示したときであり、それらはみな芳子が女学生である、という事実からくるものであった。前述したように明治は国民皆学の時代であり、女学校もその数を増していた。女学校の増加に伴って当然のことながら女学生の数も増加する。しっかりとした教育を受け、自我を持った女性がこの時代一定数存在していたのである。時雄はこの「女学生」というきちんと内面を持った文化的記号に対して欲望を抱いたのであり、肉体そのものよりもその中にある自我、内面を所有したいと願ったのである。しかし、当時は女性が主体化していくことをタブーであるとする考えもあった。教育によって目覚めた女性を男性中心的な社会を覆しかねない危険な存在であるとし、抑圧、排除すべき存在としたのである。
そうした視点からこの物語を見直してみると、旧時代的思想(男性中心の社会)と新時代的思想(女性の主体化)の間で揺れ動いている時雄を描いている、と解釈することができる。女学生という「ハイカラ」な存在に心動かされた時雄→芳子に教育を施す→教育により自我を得た芳子が恋人を作る→激しい嫉妬、後悔に苛まれる→しかし、愛を告白できないというような流れである。最後まで時雄が芳子に気持ちを告げることはなかった。時雄は揺れ動きつつも、女学生という新時代の象徴のような存在に憧れる気持ちに終止符を打ったのである。
新しい制度に触れ戸惑いつつも強い憧れを抱きながら、結局古い制度の中から抜け出ることの出来なかった時雄が広く読者の共感を得たからこそ、この作品は現在まで語り継がれているのではないだろうか。
参考文献
・「田山花袋『蒲団』にみる日本の近代化とジェンダー」 生駒夏美
Gender and Sexuality : Journal of the Center for Gender Studies, ICU 7号
P5-36 2012/03