『紫式部日記』の後半部分には「消息文」という文体が用いられている。消息文とは、手紙に用いられる文体、またはその文体で書かれた文章のことで、紫式部の内面が直接的に現れている。『紫式部日記』では、多くの人物への批評や批判が語られているが、清少納言に関する部分は他の人物批評と比べて格段に長く、そのほとんどが感情的な批判である。紫式部は清少納言にどのような感情を抱いていたのだろうか。
「清少納言こそ」で始まる部分は話に筋が通っておらず、他の人物への批判と比較しても性質が異なる。前者ではどれも批判に至った経緯が語られているのに対し、清少納言への批判は、理由の例示もなく根拠もない。
また、この後、内容は一転し紫式部の過去がつづられる。女房に漢籍を読んでいることをとがめられること、自分の処世術、左衛門の内侍に「日本紀の御局」と言われたこと、幼少時に父から漢籍を学んだ思い出、隠れて中宮彰子に楽府を進講したことなどが続く。なぜ、紫式部はこのタイミングで自身の思い出を続けざまに語ったのだろうか。これほどに構成、内容が乱れ、感情的表現が多いことは、紫式部自身の無意識的で非論理的な心情の表れである可能性が高い。ここに、彼女の「漢籍」に対する異常なまでのこだわりが関係しているのではないだろうか。
清少納言を批判する部分には「真名書きちらしてはべる」とある。また、その後にも「なでふ女が真名書は読む」、「日本紀をこそ読みたる」、「書読み侍りし時聞きならひつつ」、中宮には「楽府といふ書二巻」を隠れて教えた、など漢籍に関する記述やエピソードが多く書かれている。そして、重要なのは、紫式部自身は漢籍の学識を隠そうとしていたことである。幼い頃から漢籍を学んできたのに、「一という文字をだに書」かず、宮仕えの間も、「御屏風の上に書きたることをだに読まぬ顔をし」ていたと述べている。『源氏物語』には漢籍をベースとした部分が数多くあることから、作者である紫式部が漢籍に明るいのは周知の事実だったはずだ。にもかかわらず、紫式部は人前では漢籍の知識をひた隠しにしていた。しかし、その一方で中宮彰子に「文集のところどころ」を読んでいたり、「楽府という書二巻をぞ、しどけなくかう教へたてきこえさせて侍る」という記述もある。紫式部はわざわざ漢籍の学識を披露する場面も自ら作っていたということになる。
このような紫式部の屈折の原因は彼女の幼少期にあると考えられる。『紫式部日記』の後半では、兄より漢籍の才能があった紫式部に対し父の為時が、男であればどんなによかったか、と嘆く場面が回想される。その言葉は紫式部への賞賛の気持ちから出たものであったのかもしれない。だが、彼女の心には父の嘆きが強く印象に残り、父に嘆かれるような自分の才能を恥じて隠すようになった。その一方で、生まれ持った才能や培ってきた努力を誇る気持ちも確かにあったからこそ、分かりにくい形でその才を示そうとしたのだろう。
紫式部の持つ矛盾した二面的な性格が、清少納言のくだりの文章の乱れに関わっていると考えられる。紫式部は、自分の才能や学識のレベルの高さを十分認識していながらも素直に受け止められず、強い葛藤を抱いている。そんな彼女にとって、己の才知や容貌を隠さずにさらけ出しているような人物であった清少納言は、目に付く存在だったのだろう。自由に生きる清少納言が憎らしく、またある点では羨ましく思っていたのかもしれない。
参考文献
・『紫式部日記』清少納言批評の背景 山本 淳子
「古代文学」53巻9号 P512~521 2001/9