われわれは自由なのか ― 決定論を考える

①序論

 或る物事には必ず原因があるはずだ。われわれは自然とそのように考える。そして当の

物事それ自体が、この後に起こる別の物事の原因となる。このような考え方を、たとえばラプラスは次のように表現した。「ある知性が、与えられた時点において、自然を動かしているすべての力と自然を構成しているすべての存在物の状況を知っているとし、さらにこれらの与えられた情報を分析する能力をもっているとしたならば、…(中略)…この知性にとって不確かなものは何一つないであろうし、その目には未来も過去と同様に現存することであろう」[1]と。このような世界の捉え方を決定論(determinism)と呼ぶ。

②本論

 決定論にしたがえば、世界内のすべての事象は因果の連鎖につながれていることになり、現在起こる出来事は(たとえば、あなたがいまこの文章を読んでいるということは)因果の連鎖の最初すなわち宇宙開闢の瞬間からからドミノ倒しのように決定されていたことになる。人類はかくの如き因果の連鎖を探求する方法論としての自然科学を追求する一方で、歴史上、自由を求めてもきた。しかし、決定論的世界観のもとでは人類のすべての行為が因果関係の中に回収されるため、人類は理論的に自由ではありえない。さらに、一部の者が殺人等の罪を犯した場合であっても、それは因果の連鎖から不可避的に起こった出来事だから責任を問えないということになってしまうだろう。

 因果の法則などいくつかの原理から世界内のあらゆることを導出しようとする普遍学(mathesis universalis)の試みはデカルトに始まり、ライプニッツにも引き継がれた。それはまさにラプラスの魔に迫る知性を実現しようとする試みだった。しかしながら、そこには絶対に到達し得ない前提が含まれている。端的に言って、上述のラプラスの前提には無理があるのだ。「与えられた時点において、自然を動かしているすべての力と自然を構成しているすべての存在物の状況を知っている」と言うが、「力」については現在人類の知るところのものがすべてだという確証は持てないし(知らないものが何であるかを知ることはできない ― 探求のアポリア[2])、なによりこの広大なる宇宙の「すべての存在物の状況を知っている」ことはありえない。人類はこの意味で無知である自己を自覚する必要がある。

 

③結論

 われわれは、宇宙のすべての存在物に関する不完全な知しか持ち合わせていないゆえに、皮肉にも自由である。さらに現代の量子論の立場からは、与えられた時点の状態は確率論的にしか決定し得ないために、もしも量子論が正しいのであれば、科学がこの先進歩をつづけて行ってもラプラスの魔そのものが原理的に存しえないことが帰結する。

[1] ラプラス(内井惣七訳)、『確率の哲学的試論』、1997年、岩波文庫、10頁

[2] プラトン(藤沢令夫訳)、『メノン』、1997年、岩波文庫、80 d 5-8

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