①序論
因果関係というものを、われわれはふだん当然の前提として生活しており、科学的な研究もまたこの原理の上に成立しているように思われる。それは、過去の経験からして、かくかくの原因からしかじかの結果が起こるという信念の体系である。しかし、ヒュームは、「私は、こうした対象がつねにあのような結果に伴われていたと見いだしてきた」という命題と、「私は、外見において前者に似ている他の対象が後者に似ている結果に伴われるであろうと予測する」という命題とは、同一であるはずがない、と述べる[1]。
②本論
過去に或る条件で或る現象が繰り返し観測されると、そのことをもって「次もそうなるだろう」と考える推論の形式は帰納法(induction)と呼ばれるが、これは経験則であって、論理的必然性がない。実のところ、自然科学はそのほとんどが実験・観察から得られたデータから、一般理論を構築しようとする帰納法の論理で成立している。
しかしながら、特殊から一般を導出しようとする帰納法は、一般から特殊を導出しようとする演繹法(deduction)に比して論理的に脆弱である。帰納法では将来に向けて、命題を検証するためのさらなる実験・観察を実施する可能性に開かれているけれども、そのうち1件でも命題の反例となるデータが出てきた場合、その命題は論理的に偽である、ということになるからだ。ポパーは「科学とは何か」を定義しようとする際に、この点を逆手に取って「反証可能性(falsifiability)」の概念を提唱したが失敗に終わった[2]。
現実的に、科学者の議論は、反例が出れば命題を取り下げるという形式をとっていない。たとえば、「カラスは黒い」ことを示そうとして、カラスを観察し白いカラスが観察されても、直ちに「カラスは黒い」という一般命題が偽であると断じられるのではなく、むしろ「突然変異」である可能性が検討されて、科学者のコミュニティが納得すれば、もとの命題は守られる。演繹的な論理に支配される数学と、帰納的な論理に支配される自然科学とでは、命題を証明することの意味そのものが異なっている。
種々の偶発的な条件の変化によって、実験・観察の結果がぴたりと理論のとおりに行くことの方がむしろ例外である。一般理論とされる命題に大多数の実験・観察データが当てはまっていれば足り、当てはまらないように思われるデータが出てきた場合には一般理論を直ちに取り下げるのではなく、これらのデータが一般理論に当てはまらない個別的事情をまずは考えるのである。
③結論
帰納的論理と演繹的論理は互いに異なる体系である。「論理的」であるからと両者を混同して、混乱を招くことのないように議論を進める必要がある。
尚、上記以外にもまだ問題は残っている。たとえば、対偶の問題がある。「カラスは黒い」の対偶は「黒くなければカラスではない」だが、これらが論理的に同値と考えると、屋内で後者の命題を実証するデータを得ることで前者の命題を証明することに貢献できるだろうか。
[1] ヒューム(斎藤繁雄・一ノ瀬正樹訳)、『人間知性研究』、2004年、法政大学出版局、31頁
[2] Samir Okasha, “Philosophy of Science: A Very Short Introduction,” 2002, Oxford University Press, pp. 13-17