①序論
神は存在するのか。多くの神話は世界創造の物語を有しているが、西洋哲学と密接に関連してきたキリスト教もまた例外ではない。『旧約聖書』冒頭の「創世記」によれば、神は初めに天地を創造し、自らの似姿としての人類を創造して、さらにあらゆる生きとし生けるものを生み出したのだという[1]。他方、現代の物質科学の成果によれば、宇宙はビッグバンから開闢したものとされ、その後の宇宙生成の展開はすべて自然科学の法則にしたがうものとされる。世界の創造者としての神は存在するのだろうか。
②本論
神が存在することの古典的な論証のひとつに、 Design Argument がある。これに類する議論は古代から存在しているが[2]、ウィリアム・ペイリーのものが比較的よく知られている。いわく、もしもあなたが草原を歩いているときに時計を見かけたら、時計のような複雑なものにはそれを設計したひとがいるはずであり、決して自然界で偶然に生まれたとは考えないだろう、と。同様に生命やその他のあらゆる複雑な自然界の仕組みにも、設計者(すなわち「神」と呼ばれるべき存在)が当然に推定されるだろう、というのである。
しかし、この議論をそのまま受け入れるわけにはいかない。時計の設計者すなわち人類もまた、自然界の一部に過ぎず(この点で人類を特別視するのは既にキリスト教的な人間観である)、自然科学の主張する進化論にしたがえば進化の過程で偶発的に登場したに過ぎない。ペイリーの主張では、時計のような複雑なものが偶然に出来上がるとは考えがたいというのだが、人類もその他の生命もすべては進化論的に偶然が重なって発生したものであるとも考えられる。同じ事実を、「神」という直接には観察も検証もできない概念を安易に用いずとも進化論を用いれば説明できてしまうという点で、いわゆる「宇宙論的証明」と呼び習わされてきたこのタイプの神の存在証明は今日では旗色が悪いと言わざるを得ない[3]。また、古典的な哲学者ではヒュームやカントも厳しい批判を加えていることで知られる。
③結論
ここまで、神の存在について、原因を中心に考える宇宙論的証明に沿って論じてきた。このほかにも人間を超える設計者としての神を重視する自然神学的証明(目的論的証明)、存在論的証明(本体論的証明)、道徳論的証明が試みられてきた。さらに、紀元3世紀の神学者テルトゥリアヌスの考えを要約したものとされる「不合理ゆえに我信ず」、すなわち神の超越性を無条件に受け入れる立場もある。そもそも神の存在そのものが、人類の浅知恵で証明できるものではない、理性から見たときに不合理であるがゆえに神という超越者を信仰する、というのである。以上のような観点についてさらなる検討を要する。
[1] 『旧約聖書』、「創世記」のたとえば第1〜2章を参照のこと。
[2] British Broadcasting Corporation,”The existence of God: The design argument”, “Bitesize”, https://www.bbc.co.uk/bitesize/guides/zv2fgwx/revision/3
[3] この点についてはなお、リチャード・ドーキンス、『盲目の時計職人』、早川書房、2004年で更に詳しく論じられている。