①序論
科学技術がこれほどまで進歩した現代においても、怪談趣味を持つひとは依然として一定数存在し、それを扱う著作、ウェブサイト、動画なども無数に存在する。哲学は幽霊のようないわば「超自然的」対象をどう見るべきか。ここでは、『純粋理性批判』など所謂『三批判書』以前の時代にカントが著した『視霊者の夢』を出発点に少し考えてみる。
②本論
『視霊者の夢』におけるカントの態度は極めて冷ややかである。幽霊は精神と肉体の統一体が崩壊して、精神のみとなった存在者のことだが、この統一体の崩壊は「わたしの洞察力ではとうてい手に負えない」と第一部第一章の締めくくりにカントは突き放す[1]。続く第二章で、こうした幽霊について論じようとする哲学者についても、彼らの「形而上学的な遠眼鏡」を切り捨てる[2]。幽霊はわれわれの生きている物質的世界の法則から外れているように思われるものであって、検証のしようもなく、学問の対象にはなりえない、という不可知論の立場をカントはここで取っている。これは、その後の「物自体」を不可知とする、主著『純粋理性批判』におけるカントの立場を思わせる。
『批判』期のカントにおいて、空間は時間とともに純粋直観形式を成しており、さらにこれを通じて感官に受け取られた情報が純粋悟性概念(カテゴリー)を通じて悟性によって処理されてわれわれは対象を知る。カントにとって、幽霊は端的に直観や悟性で処理し得ないものである。しかし、ここでわれわれはいったん立ち止まって考えなければならない。「或る対象Xはわれわれの理性では知り得ない」ということと、「或る対象Xは存在しない」ということとは直ちに同値なのか。
カントは『純粋理性批判』において、独断論的な形而上学を断じ、極めて常識的に数学や物理学を、理性や悟性に「純粋」に備わっている性質を論じて擁護しようとする。「純粋」という言葉に「経験を超越した」、「ア・プリオリな」という意味合いをカントは持たせているが、純粋直観形式や純粋悟性概念と言うこと自体、人間の精神の機構を人間の精神自体が論理的に記述しようとする試みだった。しかし、ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』の序言に言うように「思考に限界を引くにはわれわれはその限界の両側を思考できねばならない(それゆえ思考不可能なことを思考できるのでなければならない)」[3]。ここでカントは越権行為を働いているのではないか。
③結論
もっとも、それが真であるとして、直ちに「幽霊が存在する」という結論を導出することもできない。「不可知の対象である幽霊なぞ相手にしない」という独断がただ振り出しに戻されるばかりである。
[1] カント(金森誠也訳)、『カント「視霊者の夢」』、講談社学術文庫、2013年、p.42
[2] カント(金森誠也訳)、『カント「視霊者の夢」』、講談社学術文庫、2013年、p.67
[3] ウィトゲンシュタイン(野矢茂樹訳)、『論理哲学論考』、岩波文庫、2003年、pp.9-10