太平洋戦争の最終盤の戦い

 日本からエジプトと聞くと、行くまで何時間もかかり遠い印象があるだろう。実際、地球を半周するほどの距離がある。しかし、太平洋戦争の末期の1945年に日本軍はパナマ運河に奇襲をかける作戦を立て、実行しようとした。それを実現させた船と背景についてみていく。

 まず、なぜ日本軍はパナマ運河へ奇襲をかけることになったのだろうか。太平洋戦争末期、ナチスドイツが第二次世界大戦において苦戦を強いられていた。イタリアは早々に降伏し、枢軸国から離脱していた。ドイツはスターリングラードでの敗北を皮切りに、ノルマンディー上陸作戦の連合国側の成功、パリを奪還されるなど枢軸国の戦況は悪化の一途をたどった。ドイツが降伏すれば、日本は単独で連合国と戦わなくてはならない。そのうえ、ヨーロッパでの戦いが終結すると全ての戦力が日本に向かうこととなる。そうなると、ヨーロッパの軍はパナマ運河を通って日本に来ると予想されていた。それを未然に防ぐために、パナマ運河に打撃を与え、ヨーロッパから軍が来るのを遅らせる必要があったのだった。これは、1942年に伊二十五が艦載機を搭載し、それによる攻撃に成功したことが契機となった。日本以外にも艦載機搭載潜水艦の建造に挑戦していたが、日本軍のみが成功した。日本軍は大型潜水艦伊四〇〇型を三隻建造し、専用の攻撃用艦載機「晴嵐」を搭載した。伊四〇〇型は、連続航行可能距離が約6万キロと、パナマ運河まで十分に航行できる能力を持っている上に、地球を二周することも可能だった。艦載機を搭載していることもあり、専門用語で「潜水空母」と呼ぶ。また、浮上時の交戦を想定して主砲や対空装備も搭載していた。1945年7月、「伊四〇〇」と「伊四〇一」はオーストラリア北部のウルシ―環礁に向けまずは日本を出発した。パナマ運河襲撃の前に、現地にいた連合国の艦隊を攻撃しようとした。しかし、作戦途中で中止命令が出され、帰国途中にアメリカ軍に捕捉された。この二隻はそのまま終戦を迎え、その力を発揮することはなかった。戦後、ハワイに回航され調査されたあと、海没処分とされた。日本軍は大型潜水艦を建造したが、これを建造しなければ通常の潜水艦を10隻ほど戦力として投入できたとも言われている。

 太平洋戦争最終盤は、日本は沖縄での戦いが始まり、本土は空襲を絶えず受けていた。その中でも、海軍は連合国からの攻撃に耐えようと抵抗を続けていた。それが正しい抵抗だったかは議論もあるが、伊四〇〇型を建造した日本の技術力は目を見張るものがあるだろう。

参考文献

・加来耕三、連合艦隊99の謎、二見文庫、1995、285-288

・野村實、山本五十六再考、中公文庫、1996、324-328

・「歴史の真相」研究会、日本の軍艦完全網羅カタログ、2015、308

タイトルとURLをコピーしました