そこに在るとはどういうことか

① 序論

 哲学とは、世界から<当たり前>を剥ぎ取ってその奥にあるものを見つめる営為である。そのような<当たり前>のひとつに、「そこに在る」という実在の感覚がある。実在はふつう、物質的な実在と捉えられている。たとえば、そこに一杯のグラスが在るとき、私の体の外に物理的な実在の世界が広がっていて、その中にグラスが在る、と考えるのがふつうである。だが、それは本当だろうか。(178字)

② 本論

 グラスが在る、という言明は少し考えてみると、主観的な感覚が結び合って導かれる結論に過ぎない。すなわち、私にその形が見え、触れてその硬さや冷たさが感じられ、指で弾けば音が聞こえてくる。しかし、そのすべては物質的な客観というよりも、私の感覚でしかない。そしてこのことは私にその存在が感じられるすべての物体に該当し、「物理的な実在の世界」は、かくして私の感覚の塊に帰着する。すべては主観的感覚なのであって、客観性なるものはそこに見出し得ないようにさえ思われる。このような思考は観念論ないし非物質主義と呼ばれる。この思考の典型が英国経験論のバークリーであって、彼は「そうした事物が存在する(esse)ということは知覚されている(percipi)ということ」[1]だと言う。客観的で「物理的な実在の世界」というのは科学者による作業仮説に過ぎず、そしてそれはまた日常生活の実感に(そしてそれを慣用的に表現してきた日常言語の語法に)根ざしているばかりで、それ自体には論理的根拠がないのではないか。物質科学が世界に関するいかなる根拠を持ち出したにせよ、それはいずれかの時点でわれわれの感覚を経由せざるをえない。感覚を経由していないものはおよそ世界に関する言明ではないからである。

 しかし、世界の一切を表象している感覚がわれわれの任意にあらわれるのではなく、それをわれわれの意のままに制御することはできない以上、「これらの観念を生み出す何らかの他の意志あるいは心が存在する」[2]とバークリーは断じる。ここにキリスト者としてのバークリーはわれわれ以外の神の存在を見るのだが、それさえもいわば状況証拠に過ぎない。これはカントの言う神の宇宙論的証明ではあるけれども、実際のところカントはこれを不可能なことであるとして退けている[3]。(756字)

③ 結論

 かくして、われわれは物質的実在という<当たり前>への足がかりを失ってしまった。そのまま観念論という立場にとどまるのも一つの考え方であるし、実際にカントのように観念論的立場にとどまる哲学者も歴史上なかったわけではない。しかし、そのままとどまりつづけるには観念論的立場は、あまりにも日常的な感覚とはかけ離れている。どうすれば、論理的な経路で日常的な物質世界をわれわれは取り戻せるのか。ただ惰性で日常に生きるのではなく、能動的に思考して日常を生きる。そこに哲学の醍醐味がある。(235字)

[1] ジョージ・バークリー(宮武昭訳)、『人知原理論』、2018年、ちくま学芸文庫、56頁

[2] ジョージ・バークリー(宮武昭訳)、『人知原理論』、2018年、ちくま学芸文庫、79頁

[3] カント(篠田英雄訳)、『純粋理性批判(中)』、1961年、岩波文庫、257-258、269-279頁

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