「デカルトの哲学における脱神論的転回」

「デカルトの哲学における脱神論的転回」

近代哲学史において、17世紀フランスの哲学者レネ・デカルトは、知識の確実性を確立するため、哲学的な根源についての検討を行った。その結果、彼は「我思う、故に我あり」という有名な言葉を表明した。本稿では、デカルトの思想における脱神論的転回に焦点を当て、その哲学的意義について検討する。

序論

デカルトは、神や自然法則などの超自然的存在によって支配される古代の「オーソドックス」哲学に疑問を抱いていた。彼はこれらの権威を受け入れることなく、知識の基盤を自分自身の思考に求めた。これは、哲学における脱神論的転回の開始である。

本論

1. 方法的懐疑

デカルトの主著『方法序説』において、彼は方法的懐疑を提唱した。これは、あらゆる知識を疑い、矛盾がなく、確実であることを確認することを目的とした方法である。懐疑をすることによって、固定観念や偏見といったものから自由になり、真理に近づくことができると考えた。

2. 「我思う、故に我あり」

デカルトは、方法的懐疑の過程で、全ての事物が疑わしいと結論づけた。しかし、疑われていない唯一のものがあった。それは、彼自身が思考することであった。この発見から、彼は「我思う、故に我あり」という有名な言葉を述べ、自己存在の確証を見出した。

3. 存在と属性の分離

デカルトは、存在することや存在するものについての本質を考える過程で、存在と属性を分離することができると考えた。彼の考えによれば、存在と属性は別々に考えられるものであり、存在が属性とは独立して存在することができるということである。これによって、彼は神や自然法則といった超自然的な存在による世界の支配を否定することができた。彼は、存在と属性の分離を通じて、哲学における脱神論的転回を実現した。

結論

デカルトの哲学における脱神論的転回は、哲学史上における重要な転換点である。彼は、神や自然法則といった支配的な権威に代わるものとして、自己存在の確証と存在と属性の分離を提示した。これによって、彼は近代哲学における自己中心的な道徳哲学や科学的方法論の発展を可能にしたといえる。

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